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これでもう「コタツにみかん」が怖くない:投影・コンプレックス:なぜ「占い」を受けると心が軽くなるのか

もう随分前のことですが、大好きでいつも楽しく観ていたテレビ番組があります。

フジテレビ系で放送されていた「やっぱり猫が好き」という番組です。

 

当時とても人気がある番組だったので、覚えておられる方もいらっしゃると思います。

 

 

3人の女性が、設定では三姉妹なんですが、お部屋の中でだらだらとおしゃべりをする内容でした。だから、登場人物も3人です。

でも、そのおしゃべりがとても面白く、どちらかというと世の中を「斜めに見ている」セリフが、とてもその当時斬新だと感じていました。

 

その中で、忘れられない場面があります。

季節は冬、コタツに入って、「何が一番怖いか」と話している場面で

長女のかやのさん(もたいまさこさんが演じられていました)が一言

「コタツの上に置かれたみかんになったら怖い・・・」とポツンと話します。

「何もないコタツの台の上に、ポツンと置かれたら・・・・それは本当に怖い。」と、しみじみ語るのです。

 

 

最初は、「この人、また変な事言っている」と笑ったのですが

よくよく考えてみると

手足のない、自らの力でどうすることも出来ない「みかん」になってしまたら・・・しかも、誰もいない部屋のコタツの台の上に置き去りにされてしまったら・・・・叫ぼうにも口もないし、ただそこに、置かれているしかない我が身は、きっと絶望感に似た「ポツンと」感に押しつぶされそうになるんだろうなと思ったのです。

 

 

人の記憶は、自分に都合の良い様に書き換えられている部分があるために、もしかしたら、私の脚色が入っているかもしれません。

ただ、「コタツにみかん」は確かです。

 

 

ちょっと想像して観てください。

自分が「みかん」になって、ポツンと置かれている場面になりきって想像してみてください。

 

 

胸が潰れそうなほど、怖いと感じませんか?

 

 

 

では、なぜそこまで「怖い」と感じるのでしょう。

 

それは、きっと、「他に何もない」から、そして、「動いていない」からではないかと思うのです。

 

 

その状況は、人が生きている限り絶対に味わうことのない環境だと思います。

なぜなら、どんな人でも、周囲に、自分以外のものが何もない状況はありえないからです。たとえ無人島にいたとしても、何かの生き物には遭遇するはずだし、動物はいなくても植物はあるはず。

それから、お天気は日々変わるし、雨が降ったり、日差しが差し込んだり、風が吹いたり、朝になったり夜になったりと、何かしら必ず動いています。

 

周囲の動物や植物は、勝手に自分のペースで、動き成長していきます。

お天気だって、勝手に変わっていくし、太陽も勝手に動いて、朝になったり夜になったりします。

 

 

「コタツにみかん」には、どう考えても怖くてなれないから、周囲が勝手に変わっていくのは受け入れるしかないなと思うのです。

 

 

かやのさんのセリフって、本当に深いですよね!

 

 

それでは、なぜ、「他に何もない」かつ「動いていない」と、押しつぶされる様な怖さを感じるのでしょう。

 

 

それは、「自分」が見えなくなっていくからかもしれないと思います。

 

自分を確認するとき、鏡に姿を映します。

ただ、鏡に移り込んだ姿は「反対」の姿です。だから、そのままの姿ではありません。

映像に映った自分の姿も、生の自分の姿ではありません。

でも、そこから、見て取れる「フレーム」は見当違いではないので、鏡に映った自分の姿を「自分もどき」として確認することができます。

 

自分の内面は、周囲の人に移して、確認できるものです。

周囲の人の行動や、発言などを、良心的に捉える場合、それは、自分の心の内が、その人のものと共有できたから。そして、その逆に否定的に捉える場合、それは自分の心の内が、共有したくないからです。

 

「似た者同士」が上手くいくのは、たとえ姿が違っていても、内面が同じだから。

相手が幸せになっていく姿を、自分の姿に重ね合わせることで、「わたし」を見ていることになります。

 

 

なので、何もなく、動いていない場所に、たった一人で放置されてしまったら、「わたしは何者?」となってしまいます。

そして、「空虚」を味わいます。

 

 

 

人の悩みは、人間関係・健康問題・経済問題の三つです。

どれが欠けていても、不安がつきまといます。ただ、この3つが、全て「満足」と答えられる人は、いないと思います。

大なり小なり、なんだかんだとありますよね。

 

ただ、この3つの中で、最も厄介なものがあります。

それは人間関係の悩みです。

なぜかと言うと、自分でコントロールできないからです。

 

健康に関しては、食生活を見直したり、運動をしたり、また、経済に関しては、お金の使い方を見直したり、仕事を頑張ったり、と、問題がクリアになるかどうかは別としても、ある程度、自分なりの対策を立てて、それを実行に移せます。

 

人間関係だけは、そうはいかないですよね。

相手に、自分の気持ちが通るのであれば、そもそも悩みません。相手の気持ちが理解できない様に、相手も自分の気持ちがわからない。主張すればするほど、平行線が続きます。

だから、どこかで折り合って、着地点を決めないといけません。でも、それは自分が負けた気分になって、受け入れたくない。そして、また、悩みが深くなっていく・・・・。この繰り返し。

 

もしも、負けたくない相手が、自分に持っていないものを持っていたとしたら、持っていない自分の中に「コンプレックス」の塊が出来ます。

 

 

河合隼雄先生の著書「コンプレックス」(岩波新書)には、「コンプレックス」について次の様に書かれています。

 

「コンプレックスは感情に色どられている」

それから

「感情の絡みつきのない自分の劣等性の認識は、コンプレックスを克服した姿である」

 

 

「こたつにみかん」を、何も感じなくなれたら、もしかしたら、コンプレックスを克服できた証かもしれませんね。

私には到底無理

と言うよりも、そんなの楽しくないですよね。

 

 

感情豊かに色取られた日々の方が、きっと、楽しいし、充実していると思います。

 

 

「みかん」を感情抜きで見るとっておきの方法があります。

それは、「占い」を通して、暦から観察する方法です。

「心理テスト」でも、楽しく観察できますね。

 

 

命式のバランスの「崩れ」は、五行の配置でわかります。

持っていなくて残念に思う五行もあれば、たくさん持っていて上手く使えば最高の「ウリ」になるものもあります。

命式は、「8つ」のパーツがあるので、誰しも「8つ」の個性を持っていることになります。

しかも、「大運」と言うとても頼りになるパーツが「2つ」あります。

 

その「10こ」の組み合わせを、感情抜きで観察してみると、「わたしって、こんなところがあるな」と見えてきますよ。

「コンプレックス」の解消にはならなくても、「コンプレックス」の姿がはっきりとした形になって見えてくれるかもしれませんね。

 

 

 

「占い」を受けて、心が軽くなったと思えたら、それは、「コンプレックス」を一つ克服した証だと思います。