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本当の自由を手に入れた時、人は何を思うのか:映画「ジョーカー」:タロットカード「愚者」

映画「ジョーカー」を観ました。

 

 

ジョーカーとは、本当の顔がわからないほど、仮装をし、メイクを施し、そして、人々を笑わせるために、おどけたり、ふざけたり、また、踊ったり、そして、人々はジョーカーをバカにしたり、でも楽しくなって笑ってみたり、その場の「空気」を変えくれる独特の存在感を放ちます。

 

ジョーカーの口元は、まるで笑っているようにメイクを施しているので、本当に笑っているかは、誰にもわかりません。

 

ただただ、「笑顔になってもらうため」それだけのために、「笑顔でいる」、そんな「笑顔を強制された存在」、それがジョーカーです。

 

それは、心の自由を奪われた状態、行動だけでなく、感情を封印して、周囲に合わせて生きる存在です。

 

「ジョーカー」は、「自由」から一番遠いところにいます。

 

 

生きていく上で、人が持つ「命」は3つあります。

 

一つ目は「天命」

これは、変えようのない、どうしようもないものです。

例えば、「今の時代に生まれた」とか、「身体的には女性または男性のDNAを持っている」など。理不尽に遭遇する「災害」や「時代背景」なども含まれます。

時代そのもの、つまり「時間の流れ」を変えることはできないし、見た目には「別の性の身体」を作ることはできても、今の医療では細胞レベルまでは変えられません。「お天気」や「経済のうねり」も、一個人で変えられるものではありません。

 

二つ目は「宿命」

これは、人によって違っていて、自分で持っている自分の特徴のようなものです。「宿命」を知ることで、自分らしく進む事が可能です。ただ、変えることは自分自身を変えることになってしまい、これも不可能です。

 

三つ目は「運命」

これは、外から運ばれてくる「動いている」もの。外から運ばれるので、自ら選ぶ事ができます。また、動いているので、自分の所で留めておくことはできません。

なので、運命は掴むことも、手放すことも、自由自在に自分で決められます。

 

 

「天命」を受け入れ、「運命」を使って、「宿命」の花を咲かせる。

「宿命」の種を、「天命」の場所で、「運命」を上手に利用しながら育てていく。

「宿命」は、自由に、自分らしい花を咲かせたいと、一生懸命「天命」と戦いながら、寄り添いながら、時には諦めて、そして、「運命」を使って育っていきます。

易学では、人の人生をそのように捉えています。

 

 

人は生まれながらに「束縛」を背負っていて、どれほどの「束縛」から解放されるのか、そして、解放された瞬間に幸せを感じ、「頑張ってよかった」と、「これからも頑張ろう」と、様々な「偉業」を成し遂げていきます。

 

 

 

人は、先の見えない、高くそびえ立つ「階段」を、一つづつ登っていくのです。

 

 

 

厚い雲の隙間から、少しだけ見える青い空。

きっと雲の向こうには、果てしなく広がる綺麗な青空が広がっている。

 

想像すると、嬉しくなった。

 

 

今はまだ飛べないけど、でも、きっと飛べるはず。

だから今は、不要な体力は使わずに、静かに力を溜めておこう。

 

 

 

カゴの外は楽しそう。

扉には鍵がかかっています。

でも、鍵を開ける方法を見つける事ができるかも。

試してみよう。

 

 

 

雲が去っていき、青い空が広がって、喜んだのもつかの間

「紫外線」の攻撃が始まりました。

今度は、紫外線対策をしなくては。

 

背中の「縛り」がなくなって、自由に飛べると思ったら、翼の扱い方が難しい。上手に飛べない。

今度は、翼の扱い方を練習しなくては。

 

カゴから出て、好きなところに行けるけど、カゴの中にいたら、いつも決まった時間にご飯がもらえていました。

今後は、ご飯を自分で探さないと。

 

 

そんな感じで、「階段」は続きます。

そして、「階段」を登り続けていきます。

 

 

 

タロットカード・大アルカナ「愚者」

 

何にも縛られない自由、それは、純真無垢であり、心の赴くままに行動を起こすことであると、カードは教えてくれています。

人物は女性でも男性でもありません。

崖の先は、見えなくて、もしかしたら「奈落の底」かもしれせん。それでも「愚者」は、「なんとかなる、だって自由だから」と、万能感を感じています。

誰の意見も聞かず、誰にも引き止められない。

それはまるで「天命」さえも味方につけた、というよりも、「天命」さえも操れる万能感です。

 

このカードは、別名「ジョーカー」とも言われています。

大アルカナは、全部で22枚あります。

その中の「0番目」に位置するのが、この「愚者」のカードです。

 

このカードの扱いについては、諸説あり、「0番」を最初に置くのか、最後のゴールとするかは、タロティストの間でも意見が二分しています。

 

私は、最初に置くとして解釈はしています。ただ、それでは「出発」の時が来たのかというと、「どうなるかはわからない」と読み解いています。

 

それはなぜかと言うと、「愚者」は大アルカナの中で、最も「強い」力を宿していると言われています。

なので、どんなに準備をしていたとしても、怖い者知らずがアダとなって、すべて水の泡にしてしまう危険を秘めています。

 

非常に「危険」なカードなのです。

 

ユングは自我を「意識の中心」と解釈をしています。

自我の自己に対する関係は、動かすものに対する動かされるもの。作られることで作る。つまり、対外的な刺激によって、「自分とは何か」を知る事が出来ると述べています。

 

 

何にも縛られず、万能になった時、それは対外的な刺激が全くない「世界」にいます。それは、自由を手に入れた「世界」です。

刺激がないので、「自分」がどこにいて、何に喜びを感じ、何を憤っているのか。それを知るすべがありません。だから、「自分」が一体何者なのかを「見る」事が出来ないのです。

 

 

「無の自分」からは、何も生まれません。

「無の自分」は「自分」ではないからです。

 

 

「ジョーカー」は自分は全てを失った、全てから見放されたと感じます。

それは、彼が「無の自分」になった瞬間です。

自分の「顔」がなくなった瞬間です。

彼の「世界」が、瞬時にぐるっと変わりました。

 

 

その瞬間の「映像」はとても素晴らしく、恍惚とした表情に、不気味なほどの輝く光が、彼に向かって注ぎ込みました。

詳しく書きたいけど、これからご覧になる方のお楽しみを奪ってしまうことになるのでこの辺で。

 

ヒントは「階段」です。

ただし、これはあくまでも私の感想ではありますが。

 

そして、彼は、笑顔を浮かべて、踊るのです。

そして、誰も、彼を止められなくなりました。

「形」のない「無の自分」は、遮るものが何もないので、瞬く間に広がっていきます。それは凄まじい勢いで広がります。

みんなの「顔」もなくなりました。

みんなも「ジョーカー」つまり「無の自分」になりました。

そして、どんどん「無の自分」が「暴走」していくのです。

なんでもありの、何をしても良しとする「無の自分」が暴走します。

 

 

 

究極の自由は、究極の不自由をもたらします。

究極の不自由もまた、究極の自由をもたらします。

 

 

それは陰と陽が、バランスをとって存在するからです。

 

 

「天命」と「宿命」と「運命」

どれも大切な「命」

だからバランスは大事です。