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「二元論」のその一歩先に進むと、想定外の「気」が生まれます:陰陽説・天人合一:雨降りの日に「もう一人の自分」と対話してみた

昨日までは、あんなに爽やかな良いお天気が続いていたのに

今日は、雨降りの一日でした。

 

雨降りは嫌いではないし、雨が降らないと困るけど

最近は、雨が降ると「大雨」「土砂降り」「豪雨」

情緒のある「しとしと雨」には、お目にかかれない。

 

 

降るなら降る、降らないなら降らない

白黒はっきりの「お天気」は、なんて潔い。

 

「全体で起きていることは人にも起きている」(天人合一)

これは、東洋思想の根っことなる思考です。

 

善いのか悪いのか、成功か失敗か、勝つか負けるか、の、「二元論」は、曖昧なものを排除します。

お天気が「降る降らない」の二つに一つであるように

世の中の雰囲気も、曖昧さは許さずに「二元論」のみで判断されてしまい、ちょっと窮屈に感じることもあります。

 

 

雨が降る日は、水が低地に向かうように、なんとなく「下がって」ダメダメだらだらモードに入ってしまう。

 

そんな時の口癖は

まあいいか、今日でなくても、お天気が悪いから

また気持ちの良いお天気になったら頑張るから

今日のところは、仕方ないな・・・

 

 

大して何も達成できない一日ではあったけど

それでも、今後の「テレワーク」をより良くするために、必要な物品が分かったし、それをAmazonで注文したし、webカメラがなくても、iPhoneがあればなんとかなるって教えてもらったし、どうせwebカメラは注文しても在庫がなくて、いつ入荷できるのか、わからないって言われたから、それをあてにせずできる方法があることがわかった。(まだ、出来てはいませんが・・・)

 

今日の私は、思いっきり「陰の人」ではありましたが

まあ、振り返ってみたら、少しは進歩して、新しい「展開」に向けて動けていますね。

 

 

 

陰陽は、両方揃って、素晴らしい「景色」をつくります。

人もまた、「陰の人」と「陽の人」が一緒になると、「成果」が出やすくなります。

 

「陰の人」は、はっきりと決められない人

白黒付けられず、優柔不断です。

でも、だからこそ、「繋げる」のが得意です。

「繋げる」のは「不足部分」を受け入れて、その部分を自分で補おうとせずに、外に求めます。

自分の「不足」を許せる人は、人の「不足」にも許容範囲が広く、だから、人に対して、「自分のことは、自分でやるべき」とは言わずに、「あの人に頼んだら良いかもよ」とアドバイスができます。

 

 

一方で、「陽の人」は、とにかくなんでも頑張れる人。曖昧さが許せずに、待つ事が苦手なので、いつもガツガツ進めます。

でも、だからこそ、「方向」がちょっとずれていても、そのまま突き進み、「いばらの道」に突入してしまう。

どんなに「傷だらけ」になったとしても、前に、前に、どんどん前にしか進めない。

 

 

陰の人は「つなぐ」人

陽の人は「生み出す」人

 

 

両方の人がセットになると

「生み出した」ものを、「つなぎ合わせて」大きなものへと「展開」できます。

 

 

ちょっと上手くいかないと、すぐ凹むのが「陰」タイプが強い人

思い通りにサクサク行けないとイラッとするのが「陽」タイプが強い人

 

 

あなたは、どちらに「偏って」いますか?

 

 

 

ただし、「広げること」「続けること」は、一週間先さえ見えない「不確実」な流れの中では、どうしても「リスク」が高くなってしまいます。

 

 

「陰タイプ」は、将来への「不安感」が果てしなく広がっていき

「陽タイプ」は、揺らがない一つの「正解」に固執してしまいます

 

 

何かが大きく変わる時

「予定にない」出会いから、それは始まります。

「予定されたもの」と「予定されていない」ものとのギャップを埋めようとすると、そこから「気」が二つの間で巡り始め、「化学反応」が起こり、新しい「気」が生まれます。

だから、想定外が来るまで、マイペースに、できることをして待つしか方法はありません。

 

 

「陰タイプ」の人は、「陽タイプ」の人が「今からは、これが絶対に来るはず」と楽しそうに語るのを、横でしっかり聴いてみると、モヤモヤ感がスッキリしてくる。

「陽タイプ」の人は、「陰タイプ」の人が、「あれも良いけど、これも素敵ね」と楽しそうに語るのを、横でしっかり聴いてみると、新しい正解もあることが見えてくる。

 

そうすることで、バランスがとれて、「本来の自分」の立ち位置が、より明確になっていきます。

 

 

そもそもの「タイプ」が違うので、見ている「視座」が違います。

「今日の自分」と、あえて、真逆の視座の「もう一人の自分」から考えてみると、二つの「自分」の間に「化学反応」が起こって、何かが大きく動き始めますよ。

「責める」ことからは、何も生まれないのです。