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「運命線」の解釈:これだけは外して欲しくないんです:「運命線」「土星丘」「火星平原」

「手相」の中で、あると良いなと思っている線は、なんと言っても「運命線」だと思っています。

 

ラッキーな線は、例えば薬指の下に現れる「太陽線」も引けを取らないけど。。。

でも、やっぱり「運命線」は欲しいですね。

 

 

「運命線」とは、中指に向かって、下から中指目掛けて、昇っていく線のことです。

これは、一本とは限りません。

中指に向かって昇ってさえいれば、どこから出発しようが、短かろうが、長かろうが、それは関係ありません。

 

中指に向かっている時点で、「これは運命線」と認定となります。

 

 

どうして、中指なのかと言うと、指とは「外」と「自分」との間で、気を交流するためのアンテナの役割を果たしています。

その中で、手の指の中心が、自分の軸のアンテナとなるのです。

 

手のひらの線は、気の通り道です。

つまり、中指に向かう線があると言うことは、「自分の軸」に気が流れていることになります。

 

自ら決断する、自分の足で立っている、自分の決めた方向に向けて歩いていく。

それが、誰かの助けがあっての場合もあれば、自分が持っているものの場合もありますが、最終的には、「自ら」が基本です。

「運命線」がある人は、「自ら」の気が巡っています。

なので、どんなに小さな線でも、ひっそりとした線でも、「運命線」を見つけると、それをどうしたら、引き上げて、活き活きとした線になるかを、暦を使って考えていく時が、本当に楽しくて、お客様と一体感を感じることができるのです。

 

 

だから、私は、「運命線」が大好きで、なので、いつも手のひらの中の「運命線」を探しているのです。

 

 

中指の付け根の部分の膨らみを、「土星丘」と言います。

 

「土星」と聞くと、きっと、「占星術」に詳しい方は特に、「試練」「厳しい」「壁」などの単語が浮かんでくるかもしれませんね。

 

その通りです。

「土星丘」は、中指に気を通して良いのか、「厳しく」チェックをしています。

 

「丘」は、盛り上がっているほど、「気」を貯めて熟成する容量が多いのです。

つまり、「土星丘」が盛り上がっている人ほど、「試練」「厳しい」「壁」が大きいとも言えます。

 

ただし、だからこそ、自分で決断する力にもなっていくし、忍耐強さや。コツコツと頑張れる力が大きいと言えます。

 

 

つまり、「運命線」を流れている気は、「試練」の貯蔵庫でしっかりと熟成をされていることになりますね。

 

 

手相学的には、「自分らしく生きる」とは、「自分で試練を乗り越える」と解釈ができます。

それは、どちらかと言うと、ネガティブっぽいイメージでもあり、フワフワはしていないし、キラキラもしていません。

 

 

 

様々な「運命線」がありますが、「これだけは外して欲しくない」チェック項目が一つあります。

 

 

それは、線が「火星平原」を通っている、または、接触しているかどうか。

 

 

「火星平原」とは、手のひらの中心にある、少しくぼんでいる部分です。

この部分は、適度にくぼみがある方が、良い相であるとされています。

「火星平原」は、自我の強さや、自我の表現の仕方を観ることができます。

つまり、「自我」です。

 

本当の「自分」であり、それはもしかしたら、自分さえ気が付いていない「自分」かもしれません。

 

 

適度にくぼんでいると、感情をコントロールできたり、理性的・冷静に行動することができると観ます。

逆に、高くなっている場合には、感情的になって、周囲を振り回す人となるのです。

でも、ご安心くださいね。ここが膨らんでいる人は、本当に滅多にいらっしゃいません。「世の中」の中では、何かしら「試練」があり、「我慢」もしているから、今があるので、程度の差こそあるけど、みなさん何かしら、きっと、耐えてこられているはずですから。

 

「火星平原」を通っている線の場合は、いろいろ乗り越えて来た証です。

接触している線の場合は、乗り越える必要性を自分なりに感じて覚悟している証です。

 

 

なので、「外して」欲しくないと思っているのです。

 

 

 

「運命線」が見つからない・・・・

 

ご安心ください。

手相はどんどん変わります。

特に、巷でラッキーと言われる線ほど、不安定な線なので消えてしまったり、突然現れたりするんですよ。

 

なので、「運命線」が昇っていくイメージを、しっかりと持っていれば、いつの間にか、綺麗な線が、ひょっこりと現れます。

 

 

では、どうすれば、綺麗な運命線が昇っていくのかと言うと

それは、自分で「看る」ことだと感じています。

実は、これは、今日感じた「生まれたばかり」の私の考えなんです。なので、忘れてしまわないようにと、ブログに書いてみました。

 

長年、ずっと、仲良くさせていただいている方と、電話で話していた時のこと。

「人の目」は、会っていなくても感じるよね、彼女の言葉を聞いた瞬間に、見られて嫌な感じを受けるのは目で見ている場合、逆に、見られて何も感じない時には、「看ている」場合ではないかと思ったのです。

 

「看」とは、手をかざして、「陰」を作って、目で見ている状態です。

つまり、「陰」の目で、姿形の「陽」を見ていてくれているのではないかと思ったのです。

 

短所も、失敗も、それから、長所も、成功も、その「全て」を見ていてくれている。

 

感覚の鋭い彼女は、「手」を使って仕事をされて来た人なので、自然に「看」で見ているのでしょうね。

 

 

 

医療の現場では、人の最期に向かう時、「看取りの看護」を行います。

それはとても重要で、難しくて、正解はないのですが、そのために、専門的な研究もされている指導者もたくさんいらっしゃるほど、大切な「看護」の一つです。

その「看護」のことを、別名「ターミナル・ケア」と言います。

 

「ターミナル」とは、「出発」と「到着」が交差する「駅」のことです。

「終わり」と「始まり」を、最もその人らしい「駅」にするために、「環境」を提供していくのかが、「ターミナル・ケア」です。

なので、その人によって、全て違うから、「模範解答」も「正解」もありません。

 

 

「取る」とは、手でしっかりと掴むこと。

「看取り」とは、もしかしたら、今までの全ての「気」が、自分の手の中心に向けて流れてきて、それを自ら掴む。

全ての気には、陰もあれば陽もあります。誰にも言えない「ブラック」な事も、皆んなに知って欲しい「キラキラ」な事も、最後には、自分の手の中心に、全て戻って来てくれる。

 

戻って来たものは、全て自分のものなので、それは欲張って掴みたいですよね。

だから、「火星平原」に、いつも「隙間」を空けておきたい。

 

「始まり」と「終わり」とを、しっかりと引き受けて掴む、手放す。

その繰り返しがスムーズな人の「火星平原」には、きっと、様々な「運命線」が通っているんじゃないかなと感じました。