いっぱいの花を逞しく抱えて咲き誇る桜の樹:日常のひとコマから感じたこと
家の八重桜が、満開を迎えました。
以前は、母が、毎年、桜の塩漬けを作っていましたが、いつの間にか作らなくなりました。
それは、父も私も、あまり有り難がらないからつまらなくなったという理由です。
普通だったら、「母から娘へ」と、引き継がれる「手仕事」なのかもしれませんが、私は、桜の花と向き合う時間があったら、他のことに時間を使いたいので、今のところ、うちでは桜の塩漬けは、食卓に上りそうにはありません。
「今日の桜が、一番の見頃ね。」
ここ数日、毎朝、母は同じことを言います。
専業主婦として、ずっと生きてきた母は、家の中で「一番」を見つけるのが得意です。
今日の煮物は美味しくできた
今日のドラマはすごく面白かった
今日は洗濯物がよく乾いた
「それは良かったね。」
母との会話は、立ち止まって目の前のことを見る時間の大切さを教えてくれます。
読書が好きな父は、アウトドアチェアを広げて、満開の桜の樹の下で、本を読みます。
日が陰り、風が冷たくなっても、本に夢中になって外にいるので、母に部屋に入るように言われても、気がすむまで外にいて、自分のペースで過ごします。
「超」が三つ付くくらい心配性の父は、特に私のご機嫌が斜めになるのを心配します。
なので、私が、部屋に入るように言うと、ご機嫌を損ねないように、気を使ってか、素直に本を閉じて、部屋に入ります。
父とのやりとりは、自分の気持ちに関心を持ってもらえる嬉しさを、教えてくれます。
満開の八重桜は、花びらがたくさんなので、一つ一つの花が、とても重そうです。
花が咲けば咲くほど、花の重みで、枝がしなっていきます。
それでも、桜の樹は、少しも重たそうではなく、
「どうよ! まだまだ咲かせるから見てて!」
と、ドヤ顔で、全ての花を抱え込んで、咲き誇っています。
桜の樹を見上げていると
「そんなにやせ我慢しなくても、本当は重いんじゃないの?」
と、言いたくなるけど、それでも、微動だにしないので、
ちょっと健気で可愛くて、笑ってしまいます。
同じ「景色」を見ていても、人は「自分のアンテナ」でキャッチした「景色」を見ています。
見ている「自分」が違うので、「自分」の数だけ感じ方が違います。
何を感じて、どう思うのか。
それを深く読み取ると、今の自分のアンテナの「周波数」がわかり、「自分の思い」に気が付きます。
どうやら、私は、たくさんの「花」を逞しく抱え、ドヤ顔で、咲き誇りたいらしい。
そのために、「握力」強化プログラムを、今日から開始しました。