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「運」が味方をする人・「運」に見放される人:「気」を意識して行動することは「運」を調整すること:なんだか上手く行く人の「共通点」

 

結局は、すべては「運」次第。

 

どんなに切望したとしても、どんなに欲しいと望んでも、手に入らないものは手に入らない。でも、それを手に入れたから「幸せ」なのかというと、次に「失う」恐怖と戦わなくてはいけなくなるので、新たな「悩み」を抱えることになります。

 

だから、起こる出来事に対して、「意味」を持たせて「形」にするよりも、物語の中の「ワンシーン」として、軽く流して楽しんだ方が、「失う」辛さを感じずに、前向きに進んでいけるのかなと感じています。

 

 

私は、仕事柄、様々な方々の「人生の物語」を観察させてもらっています。

 

 

こんなにいい人なのに、なんで・・・

と切なく思うこともあれば

こんなにやりたい放題でも、いつも上手く渡っていく!

と思わず「あやかりたい」とハグしたくなる人もいらっしゃいます。

 

 

 

様々な物語を「分析」しながら、「運」を味方につける「特別な方法」がどこかに隠れていないかと、いつも探しているのです。

 

 

 

「暦」の景色や「天体」からのメッセージは、すべての人に平等に降り注いでいます。

この二つは、「規則的」に巡っていて、それは「逆走」したり、突然止まってしまったりすることはありません。

なので、「予想可能」です。

ということは、「運気」も平等であるということになります。

 

 

それなのに、「運の良い人」と「そうではない人」に分かれてしまうのは、やはり「受け取り方」の違いに関係あると思っています。

 

 

 

「運」が味方をしてくれる人には、一つの共通点があります。

それは、会話の中に登場します。会話の中に、をれを見つけることができた時、「きっとこの人は、成し遂げるんだろうな」と、私の中で、「確信」のスイッチがパチンと入るのです。

 

スイッチが入ったら、あとは簡単。

対策を立てて、計画を練って、詰めていき、それを「遂行」するのみです。

 

 

それは、何かと言うと、「主語がわたし」であること。

私の質問に対して、

「私はこう思う」

「私はこうしたい」

「私はこれが好き」

「私はこれが要らない」

「私が諦める」

「私が決めた」

そんな感じで、「わたし」がたくさん次々に飛び出します。

 

 

そんな人の「物語」の主人公は、紛れもなく「わたし」です。

他の人は、「引き立て役」だったり「助けてくれるスーパーマン」だったり、「厳しい師匠」だったり。そして、その他大勢は「エキストラ」です。「エキストラ」は、「物語」の中の「景色」なので、「エキストラ」には左右されずに、物語は進みます。

 

「わたしが主語」の人の「物語」は、とても面白いのです。

「わたし」が色んな経験をして、色んな試練を乗り越えて、大きく進化をしていきます。

これから一体、「わたし」は、何を作り上げていくんだろう。「物語」から目が離せなくなり、物語に参加したくなり、「私に何かできることはないかな」と、真剣に考えて、一緒に楽しみたくなります。

 

それは多分、私だけだなく、その人に関わる人がすべて感じる「思い」のはずです。人は、みんな、根っこは同じ「思い」を大切にしているから、だから、「共有」して「共感」します。だから、「思い」がどんどん大きく進化して、みんなが上手くいきたくなるのです。

困った時には、手を差し伸べたくなるし、それよりも、困らないように、いつも見ていたいと思い、目が離せなくなります。

そして心からの応援をします。

 

森羅万象すべてのものは「気」が集まって構成されています。

だから、人も「気」であり、運も「気」です。

だから、人が応援すると、運も一緒になって応援をしてくれます。

 

 

 

逆に、運が味方をしたなくなるのは、「物語」がつまらない時です。

 

一体誰が主人公なのかわからない

主人公が何をしたいのかわからない

主人公がつまらなそうにしている

 

そんな「物語」は、すぐに飽きてしまって、最後まで見届けるには「我慢」しなくてはいけません。

それはちょっと退屈でつまらない・・・

 

主人公が誰だかわからない「物語」は、たくさんの「わたし」が次々に登場します。

「あの人がこう言ってた」

「この人がそれ良いよって言ってた」

「みんながそれはダメだと言ってた」

 

人が「みんな」という時には、身近な知人が3人以上同じことを言った場合に、「みんな」と一括りにするそうです。

なので、「みんなって誰?」と、数えてみると、「その他大勢」が他にたくさんいることが、わかります。

 

 

「あの人がこれしようって言うから」

「この人にこっちに行こうって言われた」

「その人がそれやめようて言われた」

 

 

そんな気持ちで「主人公」が、様々な体験をしていったとしても、楽しいはずはありません。つまらなそうにしている「シーン」ばかりなので、見ている方もつまらなくなります。

 

 

人が「つまらない」と感じると

運も「つまらない」と感じます

 

 

 

全てのものは進化します。

進化の過程を「形」でイメージしてみると、それは「点」から始まって「面」となり、「立体」に膨らんで、空気と同化するように、ふわっと「一つ」になるのではないかと思っています。

 

「点」のとき

物語の登場人物は「隣近所の人」

それは小さな狭い「世界」です。

 

「面」のとき

物語の登場人物は「同じレベルの人」

例えば、「国籍」とか、「持っているもの」「立場」とか。

みんなと一緒だったら、とりあえずは安心です。

 

でも、「立体」は、上にも下にも、四方八方広がるので、どこにでも行ける「世界」です。

どこにでも行けると言うことは、どこにも行けないこともあるかも。

だから、遠くを眺めると、「不透明」で「不確実」でとても曖昧な「世界」です。

 

登場人物も、訳のわからない人やら、信頼できない人やら、果たしてこれは「人」なのか?そう言いたくなる人たちがたくさん。

 

そんな人を「主人公」にしてしまったら、「物語」も「不透明」で「不確実」で、曖昧なものになるのです。

「隣近所」の人も当てにはならない、「持っているもの」「立場」も当てにはなりません。

 

「立体」になればなるほど

物語の主人公は「わたし」以外では成立しなくなってしまいます。

四方八方から主人公が登場してきては、もう、誰の「物語」かわからなくなってしまい、収集がつかなくなります。

 

人は「選択肢」が増えるほど

人は「手放す」ことを強いられます。

 

だからこそ、「点」のときよりも、「面」のときよりも、主語が「わたし」の物語は、とても面白い。

目が離せなくなります。

 

 

だから、人ももっと応援してくれて

運ももっと応援してくれます。

運も「二極化」していくのかもしれません。

 

 

 

なかなか主語を「わたし」に切り替えることができない時、おすすめの方法があります。

 

 

それは、「もう一人」の自分になることです。

自分が「他人」に話していることを、「自分自身」に話してみてください。

 

「自分」vs「もう一人の自分」

 

「もう一人の自分」が「自分」に向き合って、語りかけても

「だって・・・」「でも・・・」「どうせ・・・」

そんは返答ばかり続くと、いささかうんざりしてしまいます。

 

 

「もう一人の自分」がうんざりすると

「運」もうんざりします

そんな返答ばかりすることが、どんなに勿体無いことなのか、お分かりいただけると思います。

 

 

「運」がワクワクするような「物語」を紡ぐ人は

「運」がファンになってくれます。

 

 

 

今日は、主語が「わたし」の人と、ランチをご一緒させていただきました。

 

その人の物語にタイトルを付けるとすると

「わたしは、それでもイバラの道を行く!」

 

そんな「物語」に触れると、「私も、きっと、なんとか出来るはず」と、そんな気持ちになってきて、自分の「物語」にも、ワクワクするようなタイトルを付けたくなりました。